伝える力

理科系の作文技術との対比が非常に面白い。見事に文系と理系で分割されている。


本書は理科系の作文技術のように文章力に限った話ではない。コミュニケーション全般を含める。会話や、雰囲気まで含めての「伝える力」だ。

なぜ綾小路きみまろは悪口を言いながらも大勢の人に好かれ、村上ファンド村上世彰は世間に嫌われたのか?結論から言えば人柄が影響している。綾小路きみまろは聴衆に対して「あなたのことを嫌っています」なんて雰囲気はまるで無く、「あなたのことが好きですよ」という人柄が伝わってくるのだ。逆に、村上世彰は謝罪しておきながらも「悪いといえば、それは形式的には悪いことでしょうからお縄は甘んじて受けます。でも、自分はそんなに悪いことをしたつもりはありませんよ」という態度が好感度を下げ、冷ややかな目で見られるようになってしまったのだ。村上世彰の一連の発言はしたたかさや「自分ひとりに悪者になれば会社は助かるんでしょ」という意図が見え隠れしている。

村上世彰が正しいことを言っているのかどうかはわからない。嘘をついているのかも知れないし、彼が生来あのような喋り口で隠れた意図無しに純粋にあのように喋っていたのかもしれない。それでも感覚的に彼は嫌われてしまったことは事実と言わざるを得ない。その結果聴衆には「嫌な感じの人だから、悪いことしたのだろう」と受け取られてしまう。
残念がら、伝える力が無かったのだ。


伝える力には上記のような好感度を下げる話し方や、雰囲気、そしてなにより理解していなければわかり易く伝えることはできない。そのためか予想のほか文章に関する記述は少なく、かつ最後の方に追いやられている。

しかしながら有能な人間以外は雰囲気が大切だということを伝えられるだけでは伝える力は向上しない。そのような大抵の人向けにとって後半の使ってはいけないフレーズや言葉というのは即役に立つ。挙げられた言葉の使用を抑え、別の言い回しをするだけで伝えやすい文書になるのだ。


良い文書は、良いソースコードに似ている。
リファクタして無駄なものを削って、よい(文書|ソースコード)が出来上がる。小賢しいイディオムや言い回しを知るとつい使いたくなるがその衝動を抑え、誰もが見てわかるような単純明快に書くことが必要なのだ。質の低いものは何を表しているのかよくわからない。良いソースコードを書くためには作るモノの理解が必要不可欠と同様に、良い文書には伝えるモノの理解が必要不可欠なのだ。



著者は何度もこう言う。理解しなければ、伝えることはできない。

今まで自分が物事を伝えるのが苦手だったのは、理解していなかったんだ。