書評:理性の限界

理性の限界――不可能性・不確定性・不完全性 (講談社現代新書)

理性の限界――不可能性・不確定性・不完全性 (講談社現代新書)

様々な分野の専門家が集い、ディスカッションをするという形式で、理性の限界を探る。
本書に登場する専門家には、科学者だけではなく宗教家や哲学者も含まれている。

「文系も含まれている」と嘆いた人、今すぐ本書を読むべし。


本書「理性の限界」は、選択の限界、科学の限界、知識の限界の3章仕立てで理性の限界を探る本だ。

どの章も素晴らしいものだが、第二章は様々な示唆にあふれる発言が多い。科学の限界はどこにあるか。そもそも、我々はなぜ科学を選ぶのか。
本書 ―というよりは本章― の読了後は、アインシュタインの言葉「世界で最も不可解なのは、世界が理解可能であるということです。」がより身にしみる。そして、科学に裏打ちされたこの便利な世の中が、盤石なものではなく、不安定なものであると気付かされてしまう。


本書の素晴らしいところは、理性の限界を、科学技術教の信者のみで構成しなかったことだ。宗教家や哲学者も交えることで大変示唆にあふれる一冊となっている。

いくつか発言を引用しよう。

君は実に単純素朴に科学を信奉しているようだが、今や科学こそが最大の権威であり、宗教そのものであることに気が付かないのかね?

そうだよ!まさに、そのとおり、科学も一種の物語なんだよ。
いいかね、科学は人類の導きだした一つの思考方法に過ぎない。これを信じるも信じないのも、君の自由なんだ。これこそが、思考の自由であり、信念の自由なんだよ。
現代社会においても、文字どおり旧約聖書の『創世記』の記述にしたがって、神が「光りあれ」から世界を創造したと心の底から信仰している人々がいる。象を神の使いだと信じている人もいれば、宗教上の理由から牛や豚の肉を食べない人々や、輸血を拒否する人々もいる。これらの人々を「非科学的」だからといって、切り捨てることができるかね?

「なぜ科学を選ぶべきなのか」

ファインマンもクラークも、科学を信仰し、宗教を嫌った。それは自分も変わらないし、多くの理系の人々も同じだろう。現代の世は科学の発展によって今の豊穣な文明を築き、病を駆逐し、劇的に平均寿命を伸ばした。それに伴って総幸福量も増えたと自分は考えている。科学は、人を幸せにしてきた。これからも、人を幸せにするために科学は発展し続ける。

しかし、幸福度で考えれば、科学だけでなく宗教も人々を幸せにしてきたのではないだろうか?
科学が求めているものは物質的な豊かさで、宗教が求めるものは精神的な豊かさだとして、科学に満ち溢れたこの世の中、精神的にも豊かだと言えるだろうか?これは一概に答えられる問題ではない。モノが満たされても心は満たされないという意見もあれば、「衣食足りて礼節を知る」という諺があるように、モノが満ちてこそ心も満ちることだってありうる。
そして、物質的な豊かさと精神的な豊かさ、どちらが優れているかを比較する術を我々は持っていない。


では改めて自分に問う。
なぜ科学を選ぶのか?


残念ながら、自分はこの問の答えを持ちあわせていない。
もっと残念なことに、人類もその答えを持ちあわせていない。


本書にはこう記されている。

いかに科学が人類に貢献しているからといって、それを妄信するような姿勢は、もはや宗教と同じだということを、彼は論理的に導いてみせたということです。


なぜ我々が科学を選ぶのか。なぜ科学を選ぶのかの答えを持ちあわせていないのか。
これらの答えは、本書「理性の限界」で。