人生を「半分」降りる - 哲学的生き方のすすめ

人生を「半分」降りる―哲学的生き方のすすめ (ちくま文庫)

人生を「半分」降りる―哲学的生き方のすすめ (ちくま文庫)


パニック障害を患い、現在はだいぶ症状も落ち着いているのだが、治ってからというものある疑問が頭から離れない。

その疑問とは「あのつらい時期にまた戻りたいか?」という疑問だ。

答えはもちろんNOである。あの死の恐怖が眼前まで迫る体験は二度としたくない。だがしかし、それでもこのような疑問が湧き上がってNOと答えつつも完全にNOとは言い切れない。なぜなら、死の恐怖を体感した後は、生きている事を体感できるからだ。それはそれは甘美なもので、生きているうちに人生をもっと充実させようとか、やりたい事をやろうとか、今まで以上に我儘になって自分本位の生き方をしてやろう等という人生を充実させるための手段について思考を巡らせる時間が圧倒的に増えるのだ。


今回の書評の対象となる本「人生を<半分>降りる」は、上記のような自分のために生きる事を勧める本だ。

普段我々が時間を費やすのは、主に仕事であることは疑いようがない。生きているうちのほとんどを仕事に費やし、そして製品や組織について考えたり市場を分析したりと自分の人生以外のことについて費やすわけだ。これらの現状から得られる疑問はひとつ。「我々は、自分のために時間を費やしているのだろうか? 」

多くの人がいずれ自分は死ぬという現実から目を逸らし、死以外の事に注力する。会社を利益を大きくすること。国益を最大化すること。安全な原発を作ること。医療改革を行うこと。果たしてそれらは自分の死以上に重要なことなのだろうか?ほぼすべての人にとってこの問いは NO だ。しかし世を見渡すと自分の死から目を逸らし、本質的には自分自身にとって重要でないことに時間を費やす。


著者は言う。

人生においてせいぜい二番目に重要なことにすべての時間を捧げて、いちばん重要なことをおろそかにする。にもかかわらず、自分は充実した豊かな人生を送っていると思い込みがちになるだけに、ますます危険であると言えましょう。


俺自身が体験したように、死の恐怖に直面したときはもっとやりたかった事をやっておけば良かったと後悔した。本書の言うとおり、本当に重要なことから目を逸らしてしまっていた。自分自身の人生を考えてみれば、今の仕事で関わっている製品が世の中に広まることよりも、(以前から望んでいた)シロナガスクジラを生で見る事のほうが重要ではないか。それなのに重要度と自分の人生の時間配分を顧みると、ずいぶん配分が間違っている。以前から自分は我儘で、やりたくない事はやりたくない、を貫いていると思っていたが、病気になるまで死についてはどこか自分と違うところにあるモノだと考えていた。

もちろんそんなことはない。死ぬ(義務|権利)は誰にとっても平等であり、いずれ必ず自分にも訪れる。死の恐怖から逃れず、しっかりと見据えて、自分にとって何が重要であるかを考えるべきではないか。